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将棋はいつ生まれたのか、どのように定着したのか、ある程度のことは研究者の調べによって判明しています。古代インドにおいて、チャトランガというボードゲームがありました。戦争好きの王様に戦争をやめさせるため、僧侶が戦を模したこのゲームを献上したというエピソードがあります。
チャトランガはあらゆる将棋類の原型とされ、西に伝わってチェスに、東に伝わって中国のシャンチー(中国将棋)に、韓国のチャンギ(朝鮮将棋)に、タイのマークルック(タイ将棋)に、そして日本の将棋になったと言われています。日本に伝来した時期には諸説ありますが、少なくとも平安時代以前には伝わっていたことがわかっています。
将棋は最初から9×9の81マス、8種類40枚の駒というスタイルになっていたわけではありませんでした。より盤面が広く駒の種類も多い「大将棋」と呼ばれるものが平安時代に生まれています。マス目が13×13とか15×15とか、駒は30種類以上とか、とにかくスケールの大きな将棋です。
このような将棋をプレイするのは、まさに数日がかりになってしまいます。より遊びやすいようにと、先人たちは創意工夫を重ねていきました。そして戦国時代には現在のような将棋、それまでの将棋と区別して「中将棋」「本将棋」と呼ばれるものが確立されました。他国の将棋類にはない持ち駒ルールも、そうした過程で組み込まれました。
江戸時代になると、将棋は幕府から認められるようになりました。そして将棋家元・初代将棋名人を名乗ったのが、織田信長から「桂馬の使い方が上手い」と称えられたという逸話を持つ大橋宗桂です。これが現在も続く名人制度のはじまりでした。
家元と名人は以降、日本将棋の中心的存在であり続けました。年に一度、城に登って将棋を披露する「御城将棋」や、希望者に棋力を認定する免状発行などが彼らの代表的な仕事でした。誰でも名人になれたわけではなく、大橋本家、大橋分家、伊藤家が将棋御三家と呼ばれ、彼らの間で名人の座が代々受け継がれていきました。
江戸時代では長く平和が続いたこともあり、将棋は町民たちの間にすっかり浸透していきました。現在の将棋の隆盛は元を辿れば、この時代に全国的に普及したことが大きいのです。
江戸幕府が崩壊すると、自然と将棋家元制もなくなりました。言わばプロの衰退です。名人はそれまでの世襲制から、周囲の推薦で決まる推挙制に移りました。将棋は市民の間では変わらず人気でしたが、当時はまだ一般的な職業とは見なされてはいませんでした。将棋だけで暮らしていける人はほんの一握りだったのです。
しかし大正時代に入ったあたりから、新聞に将棋欄が登場するようになりました。棋譜を載せて、対局料をもらう。このシステムができたことによって将棋の勢いは復活し、次第に専業の棋士という存在も認知されていったのです。
そして1924年(大正13年)、関根金次郎十三世名人がトップに立って、東京将棋連盟(現在の日本将棋連盟の前身)が結成されました。さらに1937年(昭和12年)には第1回の将棋名人戦が開催されます。このときから将棋名人は推挙制から完全実力制になり、現在に至っています。
第二次世界大戦で将棋どころではなかった時期もありましたが、戦後は日本将棋連盟の棋士たちが一致団結して、より将棋界の発展に努めます。新聞社が主催する棋戦、タイトル戦も徐々に増えていき、かつては博打打ちとも見なされていたプロ棋士の地位は、社会的にも認められていきました。
将棋は男性だけでなく女性でも平等にプレイできるゲームですが、女性で将棋を指す人は少数派でした。しかし1970年代には女性のプロ、すなわち女流棋士が誕生します。これによって女性への将棋普及も活発化していきます。
21世紀になってインターネットが発達すると、将棋ファンはいっそう手軽に将棋を楽しめるようになりました。どこにいても対局ができ、プロの将棋を観戦できます。将棋はまったく指せないけど、ネットでお気に入りの棋士をチェックするのが楽しい。そういった形のファンも多く生まれています。
長い歴史の積み重ねを経て、将棋は現在のブームを迎えています。今将棋を楽しめるのは、先人たちのたゆまぬ努力と情熱のおかげ。そんな風に思いを馳せれば、ますます将棋を楽しめるようになるかもしれません。
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